金児昭『「できる社長」だけが知っている数字の読み方』PHPビジネス新書
わからないことをやるのは仕事ではない。
ある意味では「変人のような人」といわれる人を大事にする度量が必要です。
経営者の条件をいくつか上げるとするなら、「冷や飯を食ったことがある」のは、必ずその中に入ると思います。
何が大きい会社がいいかというと、「利益剰余金が大きい会社」です。この数字だけが、いい会社の尺度を示すことになっていくことでしょう。
「資本金の大きな会社が立派な会社」としてきた会社法学者。
わからないことをやるのは仕事ではない。
ある意味では「変人のような人」といわれる人を大事にする度量が必要です。
経営者の条件をいくつか上げるとするなら、「冷や飯を食ったことがある」のは、必ずその中に入ると思います。
何が大きい会社がいいかというと、「利益剰余金が大きい会社」です。この数字だけが、いい会社の尺度を示すことになっていくことでしょう。
「資本金の大きな会社が立派な会社」としてきた会社法学者。
僕の場合は、ビジネスという横文字が想像させるようなカッコイイものとはちょっと違う。もっとベタな、いうなれば、“商い”がやってみたかったのだ。
人に何かを買ってもらうということは、人の心を動かすということだ。
成功しているところは、どこもみんな個性的だ。業界の常識を覆すようでなければ、おそらく本物の成功は望めない。ビジネスで成功している人は、おおむね変な人が多い。いや、これは悪い意味ではなくて、良い意味で、極めつきの変わり者が少なくない。
商売をしている人はその道のプロではあるけれど、プロであるがゆえに見えていなかったり、見ようとしない部分がたくさんある。ところが、お客の目には一目瞭然なのだ。ある店に、とんでもなく感じの悪いおばちゃんの店員がいる。あの人が一人いなくなるだけでも、店の売上げが20パーセントは増えるんじゃないかと僕は思っている。だけど、おそらく経営者はそのことに気づいていない。
今の世の中、商売で成功している人なんてほんの一握りなのだ。そんな同業者やプロの集まった失敗だらけの業界がなんぼのもんや。
お金は抽象的な概念。
経験からいっても、儲けようとして何かをするとたいてい失敗する。ビジネスも儲けることを目的にしたら、上手くいかないのだ。目先の儲けばかりが気になって、視野が狭くなるからだ。目が狂う、判断が鈍る。勝つと思うな、思わば負けよ。
商売は交換なのだ。
飽きるということは、つまり慣れるということで、それは人間の持っている基本的な性質なのだと思う。お金があったら、お金があることに慣れてしまう。贅沢な悩みと言われようと、それが人生の真実だ。お金は便利なものだけど、人生の幸せとは無関係なのだ。
これまでの人生で何がいちばん嬉しかったか?と問われたら、やっぱり「16歳の誕生日に親父が買ってくれたバイク」と答える。
自分はビジネスが好きだと思っていたけれど、本当はそうではなくて、若かったあの頃に戻りたいだけなのだ。
実際の行動に移すのはまだ先だ。スタートしたら、まず徹底的にリサーチする。どうすれば成功するか、成功するには何が必要かを考えるのだ。
世の中全体では、どこかで、必ず誰かが勉強していますから、社会はだんだん賢くなっていきます。そうすると、自分が勉強しないと、相対的に社会に置いていかれるのです。
勉強しないことのツケは確実に回ってくる。
世の中の定型作業は、だいたい、ワードとエクセルとアクセスでできる。それにできないものだけが、人間の仕事として残っていく。
リスクをとる対価として、元本保証の金融商品よりも高い利率となること(リスクプレミアム)。
時間管理とは、やることを減らすこと。
十のことを試して、一つでも自分の習慣として残ったら、それはもうけもの。
基本的な文房具は持ち歩く。
何か新しいことを始めるときに、「それを導入することによって起こりうる結果」について、知っていることと知らないとでは抵抗感が違います。
きれいな人とそうでない人に対するのでは、対応が違います。
トヨタでは、「昨日と同じことをやること」を「作業」と呼び、「明日からよりよい仕事ができるように準備すること」を「仕事」と言います。
「常識」を外れたことは長続きしない。
天と同じく、市場はみずから助くるものを助く。しかし、天と違って、市場は右も左もわからぬものを許さない(バフェット)。
力強く握手する、相手の目をしっかり見て話す、積極的に相手の話を聞く姿勢を示す、身振り手振りを交えて表情豊かに話す。
本気で必要だと思っているときには、必要な人があなたに引き寄せられてくる。ただし、あなたはその人にふさわしいように自分を高めている必要がある。
「これでだめなら、あと何をすればいいの?」と思えるだけの充足感はありました。こういうときには、結果的に受かるんですね。
金子さんは、大学受験や会計士試験の夢を今でも見るそうです。そして、「本当は受かってなかったんだよ」と言われて、「今さら、もうできないよ!」と冷や汗をかくそうです。それくらい、潜在意識の中にもう一回はできない、という気持ちがあるんでしょうね、と語っています。そこまで、やり切ったということなのです。
どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。
自分にできないと考えている人間は、それをやりたくないと心に決めているからである。
自分たちの都合ばかりお客様に押しつけてくる。
テーブル・トレーが汚れているのを見て、お客様はジェット・エンジンも汚れていると思うかもしれない。
庭のすべての花を引き抜いて一輪の朝顔を活けることなど、誰もが着想できることではない。すべて摘みとられたあとは、庭に一輪の花も残らないし、茶室の一輪の花も明日には枯れてしまう。秀吉が茶室で一服する「真実の瞬間」のために、利休は全身全霊を傾けて秀吉をもてなしたのである。
万に一つ、小さなダイヤモンドが発掘されても、それが事業として採算に合うかどうか、また買い手がいるかどうかも精査しなければならない。
ビジネスで大切なことは、取引が終わったあとの売り手の対応である。
小才は縁に出会って、縁に気づかず。中才は縁に気づいて、縁を生かさず。大才は、袖すり会うた縁をも生かす。
ノードストロームの社員ハンドブックのなかに、以下のことが掲載されている。「いかなる状況にあっても、あなたの良識で判断してください(Use your good judgement in all situations.)」。
社風や風土というのは、いったん定着してしまうと、それを変更するのが非常にむずかしい。
組織を動かすうえで大切なことは、従業員を解放することである。
サウスウエスト航空のCEOのハーブ・ケレハー氏は、お客さま以上に従業員を大切にし、従業員の想像力とエネルギーを発散させている。
羽生名人は、棋盤上の駒をマネジメントしているのである。
型破りの人間をもっと登用すべきである。
自分が思い描いたいて未来どおりになっていくことを「自己成就的予言」と呼ぶ。
抑うつ的になりたくないなら、自分の性格をひっくり返せばよい。
「腹が減っては戦はできぬ」は、デンマークの古いことわざ。
仕事がつらいときこそ、「なんだかおもしろくなってきたぞ」という声を出そう。
「私は○○だ」と100回くらい唱えてみてほしい。
難しい作業をするときには一人でやったほうが効率がいい。ルーティンの仕事であるとか、流れ作業のような単純な作業をするときには、他人がいたほうがいい。
「反省」という言葉は、結果がわるかったときに使われるものであるが、結果がよかったときにこそ、自らを振り返るべきなのである。
背筋を伸ばせ。
質問するときの大事な原則-それは、他のだれかが質問しているようなことを、尋ねたりしないことである。
「顔」と「名前」は、脳みその中で記憶される場所が違う。
サミュエルソンが直接インターネットに出てきて教えてしまうと、「輪読会」をやっている程度の経済学の教師は失職してしまうのである。
ネガのスペース(フェデックス・キスチョコ)。
「ハイ・コンセプト」とは、パターンやチャンスを見出す能力、芸術面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力。
「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機敏を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力。
われわれは何をしたらいいのか。また上に行くためにはどうしたらいいか。これは、次の三つのことを考えないといけない。一つは「よその国、特に途上国にできること」は避ける。二つ目は、「コンピュータやロボットにできること」は避ける。三つ目に、「反復性のあること」も避ける。
映画『トップガン』のなかで、トム・クルーズは、ベスト中のベストのパイロットになるために邁進している人たちのための特別なクラスで、「それぐらい考えていないのか?」という女性教官の一言に、「戦闘中には考えたら終わりだ(If you think,then you are dead)」と言ってのけたものだ。
単純なアイデアこそがパワフルなアイデアなのだ。
高リターンを得られる数少ない価値ある事柄に自分の時間を投資すること、取るに足らないことは無視すること(重要事項を優先する)。
知識への投資が一番利回りがいい(フランクリン)。
もし誰もリスクを冒すことがなかったら、ミケランジェロだってシスティーナ礼拝堂の天井ではなく、床に絵を描いていたことだろう(ニール・サイモン)。
市場の動向を予測するのに、天才や数学的教養が必ずしも有効でない。
精神は肉体と違い、死ぬまで成長、発達させることができる(アドラー)。
人間が生み出す力、集団として同じ方向を向いた組織の力は、個々人の頭のよし悪しや能力の上下などを、吹き飛ばしてしまうくらいのパワーを生み出すことを知った。
地べたを這いつくばり、お客様に頭を下げ、モノを売る。そういうことができなければ、新しい市場や新しい時代を切り開くことなどできないのだ。そもそも歴史は常にそうだった。
現実経営の背骨は収支の帳尻を合わせることと人を動かすことだと叩き込まれた。キャッシュフロー経営というと格好よく聞こえるが、営々と収支の帳尻、カネ回りの帳尻を合わせ続けることがいかに大変なことか。
組織も戦略も「そこで戦っている生身の人間の本性に従う」というのが正しいと思う。
経済構造の議論でもうひとつ重要なのが、事業の付加価値である粗利や営業利益が構造的に大きいか、小さいかを見極めることである。この指標が小さいということであれば、それは事業として、戦略的自由度も小さいということになる。
経営が教科書どおりに進まないのは、人間が介在するから。
何となくうまくいっていないと思っても、それを誰も言い出そうとしないし、検証しようとすることすら憚られる文化を持った企業は案外多い。
カネボウ化粧品の価値を生んでいるのは、ブランドや経営者ではなく、最前線で化粧品を売ってくれているビューティーカウンセラーという女性たちにあった。組織構造上いちばん重要なのだ。
そもそも人間は四〇歳を過ぎたあたりから、生産性が下がっていく。四〇代、五〇代で付加価値のある仕事ができている人は、実はかなり少ないだろう。
管理職の仕事で付加価値をつけるというのは、実は相当な能力が必要なのだ。
学歴や年功序列で半自動的に管理職になるシステムでは、管理職や経営職に就くと、ピーターの法則どおり、ほとんどの人が無能になっていくのが現実である。このことに気づいたときの答えは、三つしかない。自覚して誰よりも仕事と自己研鑽に奮闘するか、一兵卒に戻るか、それとも「老兵は静かに去る」か、である。
ダイエーは、そもそもスーパーのためだった。不動産事業をやるために、生まれた会社ではなかった。ところが、いつしか会社が大きくなっていく過程で、会社そのものを大きくすることが目的になってしまったり、会社の中で仕事がなくなってきたシニアのポストをつくるための事業を始めるようになったりしてしまった。その本来の目的と手段がひっくり返ったのだ。だから得意でもなく、取り柄でもないことを始めてしまう。別の事業をやりたいのであれば、グループの子会社でやらずに、スピンオフしてやればよかったのである。
現在はストレス社会で、昔はよかったという人がいる。しかし、硫黄島決戦に投入された士官や兵隊たちを超えるストレスが存在するだろうか。
銀行は、つまりは事業や人など見ていないのだ。
経済合理の方程式「収入マイナス支出はゼロより大なり」は、冷徹な絶対原理だ。
私たちが現場で目にしたダメになっていく会社は、結局ところ経営者、経営陣が弱っている会社でした。結果的にダメになる会社は、やはり頭が腐ってしまった会社なのです。
MBA的な「経営ごっご」の世界とは明確な一線を画したリアリズムが私の経営観の出発点になった。
ガバナンス主体は事業経営に関わる最も根本的な原理原則を理解していなければならない。まずは、事業の儲けの基本構造に対するリアルな理解と洞察である。「収入マイナス支出はゼロより大なり」という当たり前の方程式が、商売の現実論として、成立するかどうか。机上でいくら表計算ソフトを回し、100万回シミュレーションしても、商売の現実的構造を知らなければ、99%は無意味かもしれない。どんなにIQが高くても、このリアリズムの無い人間には、統治主体を担う資格はないのだ。
「するな」「しない」「ない」という言葉をやめる。
「私は○○の最中だ」という表現を使う。
人間は必ず失敗する動物である。しかも同じような失敗を繰り返す。ゆえに失敗は数が多くとも、互いに類似する。
1件の重大災害の裏には29件のかすり傷程度の軽災害があり、さらにその裏にヒヤリとしたり、ハッとした300件の体験がある。これを「ハインリッヒの法則」別名「1対29対300の法則」といわれ、1929年にアメリカの損害保険会社のハインリッヒ氏が導いた法則である。
どんな失敗や事故も共通ルールに従って起きており、その共通ルールを常に頭に入れておけば将来の失敗や事故が未然に防げる。
重要なことは、失敗したことをただただ反省することではない。また失敗した人を責めることでもない。失敗を引き起こした仕組みやシステム、構造に着目して改革することにある。失敗学は、失敗を見過ごしたり、無視したり、隠匿したりせず、これに真っ向から取り組んで、解決策をルール化することである。
おごるな、隠すな、我が身を正せ。
失敗は情報であり、知識であり、知恵である。
似ている失敗を探せば7割の確率で見つかるのだ。
特に重要なのは「良い報告」ではなく「悪い報告」である。顧客からのクレームや事故の発生、取引先の経営悪化といった悪い情報こそ、いち早く「ホウ・レン・ソウ」しなければならない。すぐに善処しなければ、それこそ命取りになってしまうからだ。
大学の研究でも、セレンディピティによる「ひょうたんから駒」の大発明が、大失敗の後に起きることがある。
もしあなたに部下がいるなら、「怒らないから、悪い報告こそ直ちに伝えよ」と教えておかなければならない。そして報告されたら絶対に怒ってはいけない。
労働災害の専門家によれば、経営者などのリーダーが意識して安全管理に取り組んでいるか否かで、罹災率は3倍も違ってくるそうである。
「失敗」というのは、実は事前にちゃんと「イエローカード」が出ているものである。それに気づくかどうか、ここが重要である。
「過ちをすな。心して下りよ」と『徒然草』にもある。
ハンコを項目ごとに押すようにシステムを変えるとよい。それもどっちが上かわからぬような丸いハンコで、朱印でひとつひとつ押させるのである。
無知、無視、過信は「失敗の3悪人」。
天知る、神知る、我知る、子知る、である。悪事は公開して誤ったほうが損失は小さい。
組織にとって、隠すのは損である。普通は隠すと10倍返しである。
大事故になればなるほど、予兆が必ずあって、神様は何度もサインを送っているのである。
マニュアルの設計者も“裏技”が生まれないように、つぶさにチェックしなければならない。
もし、あなたの会社や、あなたの会社の商品に対して顧客からクレームがあったとしたら、それは1件だけにとどまらない。まだまだ多くの取引停止予備軍が潜在的に存在していることを覚悟しておかなければいけない。クレームの怖さは、クレームを示さない96%のうち91%は二度と来店しなくなることにある。
重要なことは、一度起こした失敗を二度と繰り返さない方策を、できるだけ具体的に打ち立てることである。
世阿弥も『花伝書』の中でいっているが、面白いことは新しいことであり、花も散るから美しい。どんなに面白い芝居でも、何度も見ると見飽きてしまう。マンネリを避けるには、自分たちの組織の中に絶えず新しい人種を入れることである。経営者のイエスマンだけでは、お家の一大事のときに提案される対策案はすべて同じになりかねない。全滅を避けるための大事な知恵である。
愚直に、ひとつの作業の終了を確認してから別の作業を指示するという段取りを組まなければミスが発生してしまうのである。
①決して叱ってはならない、②すぐに対処する、③報告から解決策の立案までを、指導しながら一緒に考える。
フォードにとって誤算だったのは、この人命をカネに換算するという体質が露呈したことであった。
企業にとって優先順位の筆頭はコストではなく、ブランドなのだ。
社是社訓というのはいちばんできていないことが書かれているものだ。
社員の提案、苦情が自由にできる環境でなければならない。
リーダーというのは、常に最悪の事態を想定して対策を講じておくことが肝要である。ヒューマンエラーを防ぐには、もっと注意しろと怒鳴っても効果があるわけではない。きちんとしたシステムを構築し、人為的なミスや失敗をフォローする態勢をとらなければならない。これらのフォローシステムがきちんと機能するようにダブルチェック、トリプルチェックが必要なのである。
経営でも仕事でも、いちばん大切なことは正しい現状把握なのだ。見たくなくとも、現実をきちんと見なければ、正しい分析、正しい対策などが生まれるわけがない。
失敗することがわかったとき、重要なことは、被害、損失、コストを最小限に抑えることに尽きる。
常識は8割正しい。しかし、残りの3割は間違い。
国際センスのある経営トップならば、契約書を取り交わすとき、「日本での裁判の決定に無条件にすべて従う」という一文を明記することを忘れない。
①他山の石の法則・・・他人の失敗情報を含めて真摯に事例分析して類似性を認識すべきである。失敗のナレッジマネジメントの奥義である「人のふり見て我がふり直せ」を実践することが重要である。
②慢心の法則・・・慢心・過信・自分勝手な人は、失敗情報を看過し、反省に耳を貸さず、失敗の予兆もとらえることができない。
③隠蔽の法則・・・失敗の事実を隠すと、発覚後に10倍の損失を請求される。正直にデータを公開して原因調査すべきである。
⑪大本気の法則・・・失敗後の行動指針を、あらかじめ社是として設計すべきである。顧客である消費者のことを第一に考えるべし。火消しよりも火の用心が大事である。
⑬希望的観測の法則・・・行動するときは、事前に仮想演習すべきである。将来を想定できれば、失敗が仮に起きても、イメージトレーニングができているので、失敗の共通ルールを導いてリスクを予測・回避できる。
⑭慣性の法則・・・企画変更すべきときに、不作為を決め込んではいけない。
⑮油断の法則・・・失敗後は精神的な対症療法でなく、構造的な根本対策を採用すべきである。災い転じて福となすために。
22失地挽回の法則・・・失敗後に、いつもの視点を変えて見ると、逆転のための別の解決策が見つけられる。転んでもタダでは起きないこと。自分の組織を成功させるために、使命感を持って失敗に向き合うべきである。
「おごるな、隠すな、我が身を正せ」は、それぞれ①、②、③の法則にあたる。また、「我が身を正す」ための事前準備は⑪、⑬の法則にあたる。「我が身を正す」ための事後処理は⑭、⑮、22の法則にあたる。
私はずいぶん長いこと人間をやってきた。今までに心配のタネは尽きなかったが、そのほとんどが現実には起こらなかった。
われわれは人間について書物から学ぶことはできない。
過ぎ去ったこと、どうしようもないことは、悲しんでもどうにもならないことである。なおらないものは、気にすべきではない。やってしまったことは、やってしまったことだ(シェークスピア)。
偉大な精神は常に凡庸な人々からの激しい反対に遭ってきた(アインシュタイン)。
偉大であるということは、誤解されるということである(エマソン)。
雇い主や上司というものは、下で働くあなたたちが自動的に人権を放棄して、言いなりになってくれるものと考えている。
組織が抱えている問題のうち、90%は仕組みや制度に関わる一般的問題で、残りのわずか10%が人に関わる問題である(デミング)。
企業の利益は創造性の総和である。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というビスマルクの言葉がある。「歴史に学ぶ」人とは、「統計的にこういう場合にどのように人は動いたのか」ということを基にして動く人のことである。
パチオリは、ビジネスの成功には次の3つのものが必要であると言った。
シアトルに店舗を構える魚屋の掛け声が面白い。魚を投げるとき「アラスカまで飛んで行け!」。
人間というものは、いい噂は3人にしか話さないが、悪い噂は7人に話す。
君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。
彼の人格に存する人間性は、彼にとって神聖でなければならない。一切の被創造物のなかで、我々が欲しまた意のままに処理し得る一切の物は、手段としてのみ使用され得る。ただ人間だけは、また人間と共に他のいかなる理性的被創造者も、目的自体である、まことに人間は、道徳的法則の主体である。この主体は、彼の自由による自律の故に神聖なのである。
「教養」とはつまるところ「自分ひとりでも時間をつぶせる」ということだ。
「知」の力が、男の顔にある種の魅力を与えることは、古今の読書家たちの顔ぶれを見るかぎり疑いの余地がない。読書の積み重ねによってつちかわれる「品」のようなものが、彼らの顔には表れている。
管理者精神とは、連続的な緊張に耐えうる能力のことである。常にどんな状況でもカッとせずに冷静で、強靭な意志力、忍耐力が必要になる。
よい会社とは、社長が企業家精神旺盛で、役員は管理者精神が旺盛。
思いつくとすぐに手を打つ、こういうタイプの社長が、発展の糸口を見つけるものだ。
会社の利益の“みなもと”は、社長から末端までの創造性の発揮にある。社員も幹部もそれぞれの立場で、自主的に考えて工夫しなければ利益は生まれてこない。ところが管理の強化によって、この肝心の創造性を削いでしまうことがある。
会社は世のため、人のためにやっているのではない。
情報が入ってくるときと、お金が入ってくるときにズレがある。新しいことをはじめるときは、手探りでいろいろ苦しみながらやる。その間、情報はいっぱい入ってくるが、お金は出ていく。お金が入ってくるようになると、今度は情報が入ってこない。これは非常に大事なことだ。
経営理念は文字ではない。心の問題だ。
創業者には社長の好きな情報しか入らない危険がある。
新しい情報が入ってきて、ビックリしなければ人間はだめになっていく生きものなのである。びっくりしたり、恥をかかないと、人間は知恵がでてこない。
財務管理は、単に原価管理や予算統制ではなくて、円相場が一円動いたらすべて吹っ飛んでしまうように、金融関係にとくに注意せよということである。
ご祝儀、盆暮れの贈り物は、いくらか迷ったら、思いついた高いほうの額にする。
組織というものはつくったときがいちばん効率的である。つまり、時間が経つにしたがって、硬直化し劣化していくの組織というものなのである。社長は、この組織のもつクセを十分に知っておかなければならない。
人間というのはおだてられると能力がつくし、ばかにされと能力がなくなってしまう。動機づけのためには、おだてる、ほめるということが重要だということである。
お金を儲けた話と女にもてた話は控えめに、というのがマナー。女にもてた話に至っては、相手のひんしゅくをかうだけで、ろくなことがない。
六十五歳を過ぎた社長の率いる会社はだめになる、と数字に出ている。
絶えず新しいことをやりたがる人は、3000人に10~20人しかいない。
「売れ筋商品」に加え、「在庫回転率」「坪効率」「粗利益」「労働生産性」など、すべて店側の都合から生まれたビジネス用語。
人気者となる人には例外なく、強烈な個性が発するオーラのようなものが備わっている。だから、その存在だけで人を惹きつけることができる。人気が出るか出ないかの、これが決定要因といえよう。
欧米では、『ロンドン・エコノミスト』を読むか読まないかは、人間か非人間かというぐらいに明確な差がある。
欧米のエリートと話していると、シェークスピアの話は普通に出てくるし、それらの本を読んでいるという前提で会話が成り立っている。
どんな革命もテロから始まった。
歌舞伎と能、狂言の区別ができない日本人は多い。
歌舞伎は前知識がない状態で観に行っても、面白さがわからない。ストーリーを知ってから行くものであり、何も知らずにいきなり楽しめるというようなものではないのだ。
白水社のように本を心から愛する編集者が考えたと思えるような、本の世界観を見事に表現したカバーを見たら迷わず手にとる。みすず書房、淡交社のような渋いカバーにも弱い。
マキャベリの『君主論』の中には、征服したときには即刻、元の国王の大臣全員の首をはよね、と書いてある。前の君主がやっていたこととは正反対のことをしろ、ともマキャベリは書いている。
「あんなにふざけたヤツはいなかった」と思われるぐらいでないと、人生の主人公を演じきったとはいえないだろう。
クオリティを知るために需要者は多くのコストをかけなければならない。資格は需要者にとって情報収集コストを下げる効果を持っている。玄人の提供するサービスの品質保証をするのが資格なのである。
他人の財産を管理する経営者には、自分の財産を管理するばあいと同様の慎重さ、を期待することはできない(『国富論』。
準則主義においては、あらかじめ法律によって一定の要件が規定しておかれる。そして、その要件を具備しているばあいには当然に法人格をみとめる。
複式簿記の原理はユークリッドの比の原理に匹敵する絶対的な完全原理である。それがきわめて簡明なものであるということが、むしろ簿記をして無味乾燥ならしめているのである。
会計学の場合の対象は、企業の経営活動を表現してひとに伝える行為であって、企業の経営活動という世の中の動きそのものではない。
会計は、単なるカネ勘定であって、カネもうけ(経営活動)ではない。
私たちの研究とは常に抽象と具体性の間を往復運動することである。そしてある理論をその抽象性においても、具体性においても完璧にすることが石を作り出すこと、つまり研究の成果となるのである。
大学院の修士課程の二年間は重要である。この刷り込みの二年間で、学者としての可能性が決せられると言っても過言ではない。
大学で事務助手にコピーを依頼する。一枚のコピーを取るにしても、きちっと仕上げてくれる人、多少ひんまがっても平気な人、だまっていても、ファイルの仕方を尋ね、一度いわれたことを忘れずに、以後それぞれの先生の好みに合った仕上げをする人、何回も同じような誤りを繰り返す人等さまざまである。現にコピー一つでも丁寧に仕上げる子は、やはり皆が見ているのだろう。早々に良い縁を得て、職場を去っていくケースが多い。
パチンコ屋でも同じだ。「入りますね!」「調子はどうですか?」などと後から声を掛けられた時など、銭湯の場面以上の驚きである。
経理業務における機械処理の中でのファッション化、個性化が、これからの真のサービスとして問われるのではないだろうか。
仕事の現場で、いわゆる成功者や有名人をたくさん眺めてきたが、彼らのあいだにはある種の傾向が潜んでいることに気がついた。それは、実年齢よりも若くて元気である、好きで得意なことを仕事にしている、考え方が前向きである、好奇心が強い、行動が早い、謙虚である、お洒落である、少食である、そしてエネルギーが強い。最も顕著に感じるのがエネルギーの強さだ。彼らは世間一般の人よりも体から放っている何かが強い。磁力のような人を惹きつけるものを身にまとっている。
そのためには一つの法廷を設けよ、という理性に対する要請なのである。即ちこの法廷は、理性の要求が正当であれば理性を安固にし、これに反して根拠のない不当な要求は、これを強権の命令によってではなく、理性の永久不変な法則によって棄却しうるのである。そしてこの法廷こそ純粋理性批判そのものにほかならない。
現代は、まことに批判の時代であり、一切のものが批判を受けねばならぬ。
なおなさるべきことが残されている限り、何もかもまだなされていないと見なされる。
妬まれる人間になれ!、出る杭になれ!、どうせなら、(高すぎて手が届かなく)打たれないくらい高く出ろ!。
会計の知識はふたつに大別されます。ひとつは会計のやり方の知識、もうひとつは会計の使い方の知識。
売上を増やす、や、費用を減らす、は会計の話ではない。経営の話です。会計の話はなにかと言えば、それは、売上はいくらかを計算したり、費用はいくらかを計算したりすることです。
会計は単なるカネ勘定であって、カネ儲け(経営)ではない。
当たり前のことを書く、というのはとても大切なことです。
利益は差額概念。利益は計算結果であって、目に見えず、手にとって確かめることはできない。経営における会計の使命は、会社の活動を「可視化」することです。
中小企業の場合、財務会計の相手は銀行だけ。
それにしても、どうして脱税をする人はわざわざ証拠になる裏帳簿などというものをつけるのでしょうか?。なぜなら、本当のことも書いておかないと、自分でも分からなくなってしまうから。
収益を損益計算書に計上するルールは選択の幅が狭いため、収益の数字は経営者の意思決定によって変化することは、あまりありません。これに対して、費用は経営者の意思決定による選択の幅が広いため、大きく変わる可能性があります。つまり、選択の幅は、収益の計算方法については狭く、費用の計算方法については広い、ということでしたから、普通は、費用の計算方法をどうにかする、ということになります。
自分の家の玄関が汚れているのに、隣家の屋根の雪に難癖をつけるなと教えたのは、東洋の賢人孔子である。
偉人は、小人物の扱い方によって、その偉大さを示す。
神様でさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる。まして、われわれが、それまで待てないはずはない。
人間の持つ最も根強い衝動は、“重要人物たらんとする欲求”だ。
他人の長所を伸ばすには、ほめることと、励ますことが何よりの方法だ。上役から叱られることほど、向上心を害するものはない。わたしは決して人を非難しない。人を働かせるには奨励が必要だと信じている。だから、人をほめることは大好きだが、けなすことは大嫌いだ。
われわれは、別に何も買いたいとは思っていない。それが彼らにはわかっていないのだ。われわれは、欲しいものがあれば、自分で出かけて買う。
人間は、他人のことには関心を持たない。ひたすら自分のことに関心を持っているのだ。
人間は他人の名前など一向に気をとめないが、自分の名前になると大いに関心を持つものだ。冷たい会社を温かくするには、一つの方法がある。人の名前を覚えることだ。名前が覚えられない人もいるが、つまりは、重要な仕事が覚えられない、すなわち、仕事の基礎が出来ていないことを告白しているのだ。
人と話をする時は、その人自身のことを話題にせよ。そうすれば、相手は何時間でもこちらの話を聞いてくれる。
人を説得したければ、相手に気づかれないようにやることだ。だれにも感づかれないように、巧妙にやることだ。教えないふりをして相手を教え、相手が知らないことは、忘れているのだといってやる。
他人の間違いを指摘するようなまねは、一切しないことだ。
相手がいいたいことをまだ持っている限り、こちらが何をいってもむだだ。
手紙に綴りの間違った単語があると、わたしたちの技術にもどこか欠陥があるような印象を与える。
どこかいいところを見つけて、それに敬意を表してやると、大抵の者はこちらの思いどおりについてくる。
馬鹿だとか、能なしだとか、才能がないとかいってののしるのは、向上心の芽を摘み取ってしまうことになる。その逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。
連帯保証人は何が何でも断れ!!!。どうしても連帯保証人にならざるを得ない場合は、自分名義の資産はいっさい持たないようにすることです。
「分析できることしか分析しない」傾向こそが究極のところ致命傷なのだ。
一流の知性とは、ふたつの相対立する考えを同時に心に抱きながら、しかも正常に機能しつづけられる能力のことをいう(フィッツジェラルド)。
一にも二にもサービス、圧倒的サービス、そしてとくにアフター・サービスなのである。セールスはものを売るまえでなく、売ったあとに始まるのだ。一度ジョーが車を買った客は、彼のことをけっして忘れない。彼が忘れさせないのだ。私が車を売るときにも、お客さんは一流レストランを出るときと同じような満足した気持ちで帰っていかれるのです。「一度に一台ずつ、顔をつきあわせ、腹をわって」車を売ってきた。
超優良企業は、未知の海に両足を入れないのである。
どんなに強大なブラント知名をもってしても、ビジネス・モデルの欠陥をカバーすることはできない。マーケティングにいくら資金を投じても、内容が伴わなければ、企業の消滅を早めるだけだ。
当社では、いかなる場合も、決定するのは皆さん自身です。皆さんの優秀な判断力を駆使してください。それ以外、ノードストロームにルールはありません。
ほとんどのことは、良識さえあれば判断できる。
『会社がなんと言うかわかりませんが、私が必ずなんとかしましょう』、この言葉はかなり効果的です。
われわれは愚かにも、消費者が持っている時間は空気や水と同じように金のかからないものだと軽率に考えてきた。
顧客に何かを教えてやるといったような横柄な態度をとってはいけない。
1673年フランス商事王令。この法律の目玉は、商人に記帳と決算書作成を義務づけたことでした。それだけではありません。この法典には「破産時に帳簿を裁判所に提示できなかった者は死刑に処す」という、とてつもなく厳しい罰則が用意されていたのです。そして、違反者には実際に死刑が執行されたというから驚きです。
決算書は誰に報告するものでもない、倒産を防止するために経営者が自らに報告するために作成するものである。
パチオリの簿記書には、その冒頭に「商売繁盛には三つの条件がある」と書かれていました。それは、①十分な資金力を持たなければならないこと。②会計業務に携わる者は誠実さや廉潔性を保ち、かつ熟達した技能を持っていなければならないこと。③すべての取引を秩序正しく適切に記帳処理しなければならないこと。
経営戦略の策定に当たって、ほとんどの中小企業は、ランチェスターの原則に従って、強者の戦略ではなく弱者の戦略を採用するべきでしょう。
わが国会計学の最高峰である武田隆二教授によると、簿記とは以下のとおり。さすがですね。「企業は営利を目的として活動する。したがって、企業活動は、利益獲得という目的を達成するために営まれる経済活動であるといってよい。このような企業の経済活動の良否を判断するためには、一定の期間を区切って、その期間に生じた経済活動を振り返って反省する必要がある。また、その反省をもとにして、将来の活動の方針を立てる必要も生じるはずである。このような意味での反省と将来の計画設定のためには、そこになんらかの基礎となる手段がなければならない。かかる手段を提供するものが簿記であるといってよい」武田隆二『簿記Ⅰ』税務経理協会。
これから話すことは、会計学の試験で書いたらペケをつけられるから、覚えてはだめですよ。
「商業帳簿は文書の側面があり、他の人々に対する証拠資料として用いられ得る。他の側面は、商品にその業務の状況に関する一目瞭然性を提供する補助資料であることである。フランス商法の理由書が述べるように、その正規の簿記(「正規の簿記」とは、適正な決算書の意味)は几帳面さとまともさを証言し、かつ、運命の神の変動に対する防御に役立つ。無秩序な簿記は破産者の特徴である。それが商業簿記の重要性とその正規な記帳の必然性の理由である」。僕は夜中に、できないドイツ語を一生懸命翻訳しながら、この一節を見て泣きましたよ。ドイツ人はすごい。この言葉をなぜ日本の商法の専門書は商業帳簿のところに書かないのだろう。
今日は私の誕生日。
これから、私が読んだ本で気になる文章をどんどん書いていくからね。引用については、若干、私が加工している部分もあるんで、その点はよろしく!。
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