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2009年7月 5日 (日)

立花隆『「知」のソフトウェア』講談社現代新書

何より重要なのは、自分が何を必要としているのかを明確に認識しておくことである。なんでもないことのようだが、これが一番重要なのである。それさえはっきり認識していれば、目次、小見出し、索引を活用すれば、だいたいの見当がつく。

目的先行型インプットは能率はあがるが、能率を上げすぎると欠陥が出てくる。目的に関係しない部分をどんどん切り捨てていけば、自分が設定した目的から一歩も出られないことになるからである。…目的が先行しすぎると、知的インプットは貧しくかつ卑しいものになっていく。

先にインプットには時間がかかるといったが、アウトプットにはそれと比較にならぬほどの時間がかかる。2時間で読み終わるようなちゃちな本でも、書く側は百時間から二百時間くらいかけている。 

国立国会図書館が定期的に刊行している『雑誌記事索引』と『大宅文庫の分類カード』が、日本の二大雑誌索引である。固い記事なら前者、柔らかい記事なら後者の索引でたいていのものはでてくる。 

どういう専門誌があるかを調べるには、『日本雑誌総覧』、『学術雑誌総合目録』といったレファランス・ブックをあたってみるのが1つの方法。もっと手っとり早い方法としては、その領域の専門家に聞いてみる、専門書店に聞いてみる、専門図書館に行ってみるなどの方法がある。

入門書は一冊だけにせず何冊か買ったほうがよい。その際、なるべく、傾向の違うものを選ぶ。定評ある教科書的な入門書を落とさないようにすると同時に、新しい意欲的な入門書も落とさないようにする。前者は版数の重ね方でそれと知れるだろうし、後者は、はしがきなどに示された著者の気負いによってそれと知れるだろう。

ときどき、初級書、中級書を読んだだけで、いっぱしの専門家はだしの顔をしている人がいるが、そういう人はいずれ大火傷することになる。どんな領域でも、プロとアマの間には軽々には越えられない山があり谷がある。プロをバカにしてはいけない。

一般に官僚は見知らぬ相手にはじめて対した時は、相手を見くびろうとする。こちらが、見くびろうにも見くびれぬ相手であることをキチンと態度で示さなければ、それで終わりである。押しても叩いても何の情報も出てこない。官僚から情報を引き出すためには、次の二点を相手に納得させなければならない。第一に、その情報が存在しており、それが相手の手元にあることをこちらは知っているのだということ。第二に、その情報を秘密にしておくべき理由は何もなく、公開されて当然であるということ。 

官庁情報を利用する上で注意しなければならないことは、それが特定の行政目的を達成するために作られた、客観性を装いながらも実は客観的でない資料である場合も多いということだ。最近各官庁とも、一見客観的な資料のみを用いた情報操作に実に巧みになっている。たとえば、農林水産庁が米価を抑制したいと思うときは、米価抑制の論拠となるような数字をもっぱらならべた資料を作成する。その資料をマスコミに流して書かせれば米価抑制の世論作りをすることができるわけだ。

1つ1つのデータは全部正しいが、そのデータ全部をもとに判断を下すことは正しくないということがよくある。盾の一面からだけ採取したデータから盾の両面について判断は下せないということである。だから、この点の吟味にあたって重要なのは、そこに何が書かれているかではなく、何が書かれていないかをよくよく考えてみることである。

普通の企業の調査部は、あくまでもその企業の私的利益追求のための調査部であるから、調査内容が非常に片寄っており、外部の人にも有用なデータというのはさほどないし、またあったとしてもたやすく利用できるわけではない。例外は、銀行と証券会社である。この2つは、その業務内容からして、ありとあらゆる業界に通じていなければならない。またミクロの経済のみならずマクロの経済も把握していなければならない。…ちなみに電力業界全体で作っている電力中央研究所は、日本で最も定評ある調査研究機関の1つである。

こういうときに役立つのは、NRI SEARCHという野村総合研究所が出している情報誌である。誌名は英語だが、中身は日本語。この雑誌は、ありとあらゆる調査報告を紹介するための雑誌である。

最も大切なことは、自分がその相手から聞くべきことを知っておくことである。これはあまりにも当たり前のことで、人に話を聞こうとする場合の当然の前提だから、とりたてて注意を払うべきことではないと思われるかもしれない。しかし、私にいわせれば、これ以上に本質的に大切なことは何もなく、あとは大部分が瑣末なテクニック論である。『問題を正しくたてられたら、答えを半分見いだしたも同然』とよくいわれる。これはまったく正しい。同様に、聞き取りに際しても、聞くべきことがわかっていれば、半分聞き出したも同然なのである。 

人にものを問うということを、あまり安易に考えてはいけない、人にものを問うときには、必ず、そのことにおいて自分も問われているのである。質問を投げ返されたときに、『問うことは問われること』という二重構造がはっきり表に出てくる。こわい相手に出会うと、そのうち、どちらが問う者で、どちらが答える者かわからなくなってくる。プラトンの対話篇がその典型だろう。ソクラテスに質問した者は、逆にその質問についてソクラテスから問いただされ、質問者自身の考えが逆に問いつめられていく。

具体的にいえば、第一に、知ろうとしていることが、何らかの事実なのか、それとも事実以外のこと、たとえば、相手の意見や判断といったことなのかを区別することが重要である。

この質問メモは、インタビューをしている間、いつでも目立たぬ形で素早く参照できるようにしておく。つまり、別紙にして持っておくか、ノートあるいはメモ帳の最初のページなど、いつでもめくれるところに記載しておく。

テープレコーダはあまり使わないようにしている。ただし、次のような場合には積極的に使う。後々『言った、言わない』のトラブルがありうると予想される場合。メモとりが物理的に難しい場合(歩きながら話を聞く、車の中で話を聞くなど)。あるいは英語の取材、強い方言の取材、非常に専門的な内容の取材など、あとからテープで聞き直してみないと不安な場合。相手の語り口をそのまま生かすことが有効な場合。現場の雰囲気を記録しておきたい場合などである。

なお、ノートに記録を取りながら、話の進行過程の中で思いついた新しい質問は、素早くノートの欄外にメモっておくとよい。そういう質問は概していい質問なのだ。

どうもスッキリしなかったら、スッキリするまで手を入れる。手を入れるうちに頭が混乱してきて、何がよいのか自分でもよくわからなくなるということがまま起こる。そういうときは、思い切って削る方向で手を入れる。スッキリしない部分は必ず長い文章である。そこでまず、修飾語を取り除き、連文、複文なら短文にし、できるだけ単純で短い文章にしてみる。それでもうまくいかないときは、文章の構造を変えてみる。具体的には、主語を変えてみる。主語を変えれば文章全体が変わらざるを得ない。主語を変えたとたんに、いままで呻吟していたことがウソのように文章が流れ出すということがよくある。もう1つの方法は、動詞的表現の文章は名詞的表現に、名詞的表現の文章は動詞的表現に変えてみることである。文節でも、句でも、文章全体でもよい。どんな文章のどんな部分でも、この書き換えが可能なのである。

さて、とはいうものの、まるで何もなしで書くというのは、私の場合、普通ではない。普通は簡単なメモを事前に作る。メモには2つの目的がある。1つは手持ちの材料の心覚え。もう1つは、閃きの心覚えである。前者は事前に作り、後者は随時書き留める。

どういう文体で書こうかということをすっかり忘れ、自然体で書いたときに、その人の文体が生まれるのである。稀にはピカソの画風のように、生涯の何度かにわたってスタイルが劇的変貌をとげる人が著述家にもいるが、通常は一旦確立された文体は変わらない。より洗練されていくだけである。…文章を要約すれば文体は消えるが情報は残る。

まず削ることを忘れて、自分の納得がいくまで書き足しをする。それからあらためて、どこか削れる部分はないかと、今度は削ることだけを念頭に置いて読み直してみる。書き足しと削りとは平行してやらないほうがよい。この順序が大切である。削りが目的なのに、書き足しをするとは、目的に逆行することをているようだが、そうではない。削りと書き足しは全く別の目的のためになされる。削りは量的削減、書き足しは質的向上が目的である。質の水準を変えずに削ることは可能なのだから、質的向上が求められる余地があるなら、まず、その作業を先にすべきなのである。可能な限り質を上げておいてから、可能なかぎり質を下げないようにして量を減らしていくわけだ。…人は、他人のものは客観的に素早く価値判断ができるのに、自分のものについては、それがなかなかできないということである。だから、削りは人のものを削ることで練習するとよい。」 

具体的には、論理学でいう『充足理由律』が満たされているかどうかを確認せよということだ。あることをいうために、それがいえるという充分な理由が示されているかどうかを見よということだ。それを見るためによい方法は、自分が誰かと論争をしている最中なので、スキあらばこちらの弱いどんな部分にでも相手がかみついてくるものと仮定して、もう一度自分が書いたものを読み直してみることである。いっそ論争相手になったつもりで読み直してみよということだ。あるいは、こちらにスキがあれば告訴してやろうと待ちかまえている人がいると想定してもよい。私は何度も告訴されたり告訴されそうになったり、あるいは錚々たる論客と論争を繰り返すことによってこの点だいぶ上達した。

ヴァーバル・ジャーナリズムが、情報の信頼度の低いジャーナリズムの1つの典型であるとするなら、もう1つの典型は、針小棒大ジャーナリズムというか、木を見ただけで森を描いてしまう手法である。よく見られる例は、どこか外国の国にちょっと住んだだけの人が、自分の身のまわりのちょっとした体験から、その国全体を論じてしまう本を書くというたぐいである。…こういう、特殊から普遍を演繹してしまうという大胆なことができる人には女性が多い。

ともかく、読んでいて、これはおかしい議論だと思うものにぶつかったら、まず前提を疑ってみることだ。隠された前提を含めて、前提を全部リストアップしてみるとよい。」

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