浅羽通明『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門』ちくま新書
誰もがとっくに無自覚にナショナリズムに染まっている。
なぜ「ネイション」=日本が大事なのかも、合理的に説明するのは不可能である。自分らがそこに生まれ育ち、その地域の文化を身につけてきたという偶然意外に根拠はないからだ。・・・・・無理に理論づけようとすれば、万世一系の皇統とか神州不滅とか単一民族の同質的社会とか超古代文明とかいう神話を呼ぶこむほかない。
明治天皇がロシア皇太子の煙草にマッチで火をつけた瞬間
コミューンというのは、中央政府から独立して住民が直接自治権を主張した地方政府
パトリオティズムとは、「パトリ」すなわち、幼少期よりきわめて自然に形成された郷土への感情である。
江戸期まで、日本人にとって「クニ」といえば、「郷土」「藩」のみを意味していた。
自らが属する共同体として、近代的国家を考える思想、すなわちナショナリズムがわが国で生まれたのは、ペリー提督の黒船来航以後とされている。
松蔭は、水戸学ほかの封建思想から「忠誠」を至上とする価値観を学んだが、彼において「忠誠」とは、藩主にただ仕えるのみならず、時にはその命に逆らい法規に反してでも真の忠誠を決行すべしというラディカルなものだった。
地形的な連続性ある領域は、同じ国家が領有すべきという地政学の論理は、侵略主義者の正当化によく用いられたものだ。
「和魂洋才」、欧米に学ぶのは、あくまで日本の不足を補い、むしろ日本のコア(粋)となるものを忘れず磨くためだという考えだ。
本居宣長は、支那・インド伝来のラジカルな価値体系を、「からごころ」として排斥
江戸国学の背後には、文字に代表される文明を、全て支那から輸入せざるをえなかった極東周縁地域の知識人のコンプレックスがある。
「本居宣長」で子安宣邦は、宣長が日本を肯定するときは必ず、支那という異国が持ち出され、その否定(=「~でない」)による日本肯定という論法が取られる。
ナショナリズムの核ともいうべき「民族」
本宮ひろ志は活字を読まぬ少年たちのための「社会思想家」だった。
戦前の国家観では、明治国家イクォール明治天皇だった。
司馬史観が、エリートしか登場せず庶民がいないと批判・・・・・ただ能力ある男たちを描きたかった。
司馬はインド、支那、朝鮮の停滞を、文化的必然と切り捨てる「偏見」を長く抱いていた。この点も、マルクス(元祖はヘーゲル)の一元史観そのままだろう。
軍事強国にしろ、経済大国にしろ、ともに欧米が出題した試験で見事、一番となった優等生日本の模範答案にすぎないではないか。・・・・・今度は日本が出題者の側に回ったらどうだろう。
記紀神話以来、日本的思考の古層をなすのは「生む」「なる」論理で、「作る」という主体的問いと目的意識性は乏しいという丸山真男の指摘。
日本のナショナリズムは当然、防衛として出発した。すなわち、「収斂型」である。
ナショナリズムとは、コスモポリタンとして生きるのは弱すぎる者たちが必要とする補助具となろうか。
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