戸井田道三『観阿弥と世阿弥』岩波新書
『太平記』という名称そのものが戦争の反対であることによって・・・
観阿弥も武家貴族を顧慮しなかったわけではないが、田舎・遠国の観衆をだいじにしていた。これにくらべると世阿弥は貴人にうけることをいっそう尊重している。
『花伝』の「年来稽古条々」の教育課程が、生活史的にも教育心理的にもよくできていて、現在の学校教育と比較してもおかしくないことである。これは観阿弥ひとりの経験や考えによってできたものでないことはあきらかだ。観阿弥が自分の経験を生かして、ねりあげたものだとしても、先人の経験がつみあげられていないと、こういう生理・心理に透徹した教育課程はできるはずがない。おそらく共同体生活における年齢階層による教育的な慣習がさきにあって、能の稽古をそれに適応させたのにちがいない。
沖縄にもアカマタ・クロマタという鬼がニライカナイという聖地からやってくるという行事があり、・・・
『太平記』を読んで驚くことのひとつは、じつに多くの中国の説話が紹介されていることである。
『今昔物語』をみてもわかるように、何世代かにわたって中国説話は口頭で伝承されてきたと考えられる。
『花伝』は競争相手とどうたたかうかの戦術論あるいは一種の組織論としての一面をもっていたこともたしかだ。
観阿弥・世阿弥にとって「花」という概念は能芸美の核心的な概念であった。
芸が芸たりうる美とは何かという問題に解答をあたえようとして苦労しているところに『花伝』の真のねうちがあるのであった。
その稽古のめざすものが花であったので、花が何であるかが身体以外のもの、つまり頭脳で理解されないと、稽古そのものが無意味になってしまうかもしれないそういう概念を花と呼んだのである。
観阿弥と世阿弥の考えかたのちがいを整理していえば、一つは観阿弥が九項にわたって説いた物まねを、老・女・軍の三体物まねに要約変化させていること、二つには、体と用という概念を明確化し、幽玄美を対象的な美、つまり実体的なものから作用的なものにふりかえて把握したこと、この二つとなる。
公をオオヤケというのも家を中核とした観念である。
江戸時代の大名を相手にした最高位の遊女である太夫も、・・・
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