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哲学

2016年12月27日 (火)

ルソー『エミール(下)』岩波文庫

プラトンは「国家篇」のなかで、女にも男と同じ訓練をさせている。・・・・・かれの国家では個々の家族を廃止してしまったので、婦人をどうしたらいいかわからなくなったプラトンは、女を男にしなければならなくなったのだ。

気ちがい男を愛する女は、気ちがい女でなければならない。

算術で計算しなければおやつの桜んぼをもらえないとしたら、女の子はすぐに計算を覚えることになる、それは保証してもいい。

女の子はおせじを言い、ごまかし、はやくから仮面をかぶることを知っているからだ。

服装のことをよく知っている女性は、よいものを選んで、いつでもそれをもちいている。

カトリックの国にくらべてプロテスタントの国ではいっそう家庭に愛着がもたれ、いっそう尊敬すべき妻、やさしい心をもった母が見うけられるような気がする。

ヘロドトスには、かれの歴史は考察というより物語なのだが、・・・

タキトゥスは、どんな作家がこんにちのドイツ人について記述しているよりもよく、・・・

ルソー『エミール(中)』岩波文庫

「どうして子どもはできるの」「女の人はおしっこをするようにして子どもを生むんですよ。それはとても痛くてね、そのために死ぬこともあるんですよ。」・・・・・賢い人は、これ以上に分別のある、目的にかなった解答がほかにみあたるかどうか考えてみるがいい。

容貌は性格を示すものとわたしは考える。

子どもは、喜びと苦しみという、はっきりわかる二つの感情しかもたない。

歴史の大きな欠点の一つは、人間をよい面からよりも、はるかに多く悪い面から描いていることだ。歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。

トゥキュディデスは、わたしの考えでは、歴史家の真の模範である。かれは判断せずに事実をつたえている。

人間をいちばんよく知っているのは哲学者ではない。哲学者は哲学の偏見を通して人間をみているにすぎない。あんなに多くの偏見をもっている連中をわたしはほかに知らないと言っていいくらいだ。未開人は哲学者が判断するよりももっと健全にわたしたちを判断している。

人間はいちばん安い品物だ。・・・・・人権はいつでもあらゆる権利のなかでいちばんとるにたりないものだ。

宗教というものをいっさい忘れてしまうとやがては人間の義務を忘れることになる。

宇宙を動かし、万物に秩序をあたえている存在者、この存在者をわたしは神と呼ぶ。

フランス語をよく知るためにはラテン語を学ばなければならない。

勝負ごとは金持ちのする遊びではない。それはなんにもすることがない人間のなぐさみごとだ。

2016年12月25日 (日)

竹田青嗣『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書

ヘーゲルは「近代社会」の理念のもっとも本質的な完成者、マルクスは「近代社会」の現実のもっとも根底的な批判者

宗教の基本方法は「物語=神話」を使う点にある。

錬金術への可能性は、金が合成されえない単一の元素であるという「原理」が見出されることによって終焉する。

ホッブズは王権論者であり、専制を擁護している、暴力を肯定し人間性悪説である。

巨大建造物は、権威、権力、財の集中がなければ不可能だからだ。

ルソーの『社会契約論』が全体主義の理論的源泉となったという意見は、・・・

世界史的には、大きな国家(帝国)の栄えるところ、必ず商業の繁栄が見られる。

近代以前の社会では、善はただ一つ(=真理)でなければならない。キリスト教会が何度も宗教会議を開いたり、アキナスのような学者が巨大な『神学大全』を書いて、教義を統一しようとしたのはそのためだ。

ホッブズが普遍闘争の原理を提示し、ロックが人民主権国家の可能性を示し、ルソーがその思想的「原理」を明示したとき、人類は、およそ一万数千年続いた絶対的支配と隷属の構造から抜け出す「可能性の原理」をはじめてつかんだ。

 

2016年11月12日 (土)

小倉紀蔵『入門 朱子学と陽明学』ちくま新書

朱子学は徹底的な保守・守旧の思想であり、その教えを後生大事に守った中国や朝鮮は数百年もまどろみ続け、そのせいで近代化に遅れて悲惨な運命をたどったのを忘れたか、と抗弁される向きもあるに違いないが、まさにそのような考え自体が、西洋近代中心主義に毒された誤謬なのである。

特に朝鮮は十四世紀終わりから二十世紀初めという長期にわたって、ほとんど朱子学一辺倒となった。

偉大な思想は社会の混迷期に現れるという。それは、社会の混迷期には、人間がおのれの存在に対して徹底的な恐怖を抱くからである。

伝統的に朱子学においては、四書を読む順番が決まっていた。それは『大学』『論語』『孟子』『中庸』の順である。

アニミズムでは、自然そのものに対する畏敬もあるが、それだけでなく特定の石や樹木などの個別性に対しても、強烈な畏敬ないし愛着の念を抱く。

朝鮮半島ではアニミズムというのが非常に蔑視されているから、どうしても「気の思想」よりももっと「物」に近いものの世界観になかなかおりていけない。

2016年8月14日 (日)

鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書

経営においてこれだけはゆるがせにできない、これを外したらこの会社でなくなるといった社是(コーポレイト・アイデンティティ)を貫いているのであれば、その企業には哲学があるということになる。

哲学は何から始めるべきか。これが多くの哲学者が最初にこだわる問題

胃の存在はふだんは意識されることはないが、胃がうまく機能しなくなるとはじめてその存在が意識に上ってくる。

哲学は、何かについて何ごとかを語るときに、同時に、その語りがどういう場所からなされているのか、またどのような権利根拠があってなされているのかということを、厳しく問う学問である。

ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、・・・

・・・そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人だということになる。

一つのことしかできないというのは、プロフェッショナルではなく、たんにスペシャリスト

アカデミズム内部での「哲学研究」に身を縮めていったこの国の哲学は、文献を「読む」ことに傾注し、時代を「みる」(視・診・看)ことをなかば放棄してきた。

イデオロギーとは「だれも正面きって反対できない思想」のことである。

専門家への信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにある。

2016年7月27日 (水)

小川仁志『日本哲学のチカラ 古事記から村上春樹まで』朝日新書

仏教は、経典、僧侶、寺院といったインフラに加え、思想としての体系を備えていたことから、その後の日本社会を形作る礎になり得たのです。

最初期の段階での仏教の定着が、きわめて政治的な出来事に負っていた点には注意が必要です。

天皇とは、中国の天命思想の伝統に由来します。

神道に教義や経典がないことにこそ意味があるというのです。

新渡戸の武士道が異質なのは、それがキリスト教徒の手によって、キリスト教のために書かれたという点です。

転向とは、権力の強制による思想の転換をいいます。

西田の哲学が「無の哲学である」と称される

2016年6月 3日 (金)

原二郎選訳『モンテーニュ・エセー』筑摩書房

プラトンは、肉体的あるいは人間的な幸福を、健康、美貌、体力、富の順に並べている。

ふにゃふにゃした美少年でなく、生気溢れる逞しい少年に育ててください。

まったくへぼ詩人くらい自信の強い者はない(マルティアリス)。

キケロは、哲学の論文でもっともむずかしいのは序論だと考えている。もしそうなら、私は結論だけにしがみつく。

私は背丈が普通よりも少し低い。この欠点はみっともないばかりでなく、公職にあって命令を下す者にとってはとくに都合が悪い。なぜなら、立派な風采と堂々とした体格の与える権威に欠けるからである。

一軍の先頭に立派な背の高い大将が進んで行くのを見るのは、これに従う味方の者には尊敬を、敵には恐怖を感じさせるからだ。

女というものはどんなに不器量に生まれついても、自分をきわめて魅力的だと思わない者はないからだ。

何もかも完全に美しい女がいないと同じように、何もかも完全に醜い女もいない。

ソクラテスは妻をめとるのとめとらないのとでは、どちらがいいかときかれて、「どちらにしたって後悔するだろう」と答えた。

プラトンも言うように、国家とは強力な、崩壊しがたいものである。

われわれのもっている意見のほとんどすべては、権威とそれへの盲信から得られたものである。

始めがうまくいけば、ものの半分は成功したのだと、ギリシャの賢者もそういっている。

自分の文章は自分の肉体だ、自分自身だ

モンテーニュは物事をけっして抽象しない。

2016年5月30日 (月)

アルフレッド・スターン『歴史哲学と価値の問題』岩波書店

運命の女神は、後にマキャヴェリが教えたように、気まぐれな貴婦人だからである。

ヘーゲルは『法の哲学』の中で、「ミネルヴァの梟は夕暮の迫るころはじめて飛び立つ」という有名なテーゼを語った。哲学は事後になってようやく、学問的解釈の仕事にとりかかることができるで、哲学は出来事の進行に影響を与えるには、「いつでも遅刻する」と言うのである。

サルトルの実存主義に即していうと、人間の実存が人間の本質に先駆ける。

ヘーゲルとマルクスは、この偉大なギリシア人の教えから、彼らの哲学的歴史観の核心的原理、すなわち弁証法の法則を引き出した。

これらの人びとがおこなった聖書本位の歴史解釈に対してカール・ヤスパースが下している判断も、これにおとらず手厳しいものである。彼自身は決して無神論者ではないけれども、この思想家は「これらはみな象徴であって、事実ではない」と書いている。

マルクスとエンゲルスの著書の中では、イデオロギーは専らブルジョアジーだけに限られた現象として現われている。

「力が法に先立つ」という原理も、やはりヘーゲルによって是とされている。

ハンガリアの傑出した共産主義思想家ゲオルク・ルカーチ

美しい虚偽よりも醜い真理

2016年5月16日 (月)

R.ハロッド『社会科学とは何か』岩波新書

学生が創造性を発揮する最も重要な領域は、うまい冗談を飛ばすことです。これは品位を傷つけるものではありません。明らかに、ユーモアのセンスというのは、文明人の最高の資格の一つであります。

思索は、提起された問題に答える見込みが幾らかあるような事柄に限って許される

ピューリタニズムでは、「時間の浪費」が禁じられております。

アインシュタインの宇宙では、最後の端というのがないのです。

バークレー・・・・・カントより偉い哲学者ではないかと私は思います。

ラッセルは、彼の弟子のうち、ニコーの方がヴィトゲンシュタインより偉いと思う、と私に言ったことがあります。

私は、人間の性質の差異の主たる原因が遺伝的差異にあることを疑いません。

「自由」世界では、ロシアのような中央集権的計画経済を「共産主義」と呼ぶのが普通ですが、これは実は言葉の誤用で、中央集権的計画制度は「社会主義」と呼ぶべきです。

もしバートランド・ラッセルが生涯を経済学に献げたとすれば、彼はケインズの業績に匹敵するような価値ある仕事は一つも為し遂げ得なかったでしょう。バートランド・ラッセルには、ケインズのような強烈なリアリズムと根強い常識とが欠けていましたから。

社会学は科学と見るべきではありません。

後期のヴィトゲンシュタインも、ラムゼーの影響の下に、プラグマティズムへ導かれて行った。

2016年5月13日 (金)

沢田允茂『現代論理学入門』岩波新書

ロジックという名前でよばれるようになったのは13世紀ころになってであって、・・・

カントはその『純粋理性批判』の序文のなかで、論理学という学問をアリストテレス以来、後戻りもしなければ進歩もしない「完成されていると思われる」学問として挙げている。

カントの時代の哲学者たちは、その真偽が経験に依存し、また経験の拡大とともに拡張されてゆくような人間の知識の領域を綜合的syntheticその真偽が経験に依存しないで、いわば先天的に人間のなかに在ると考えられた論理の法則だけに従って決定されるような知識を分析的analyticとよんだ。

ラッセルはウィトゲンスタインの『論理哲学論考』の序文のなかで言語のレベルの区別についてのべているが、・・・

ウィトゲンスタインは、世界は物の総体ではなくて事実Tatsache,factの総体であるという。

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