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哲学

2017年11月 8日 (水)

蓮實重彦・柄谷行人『闘争のエチカ』河出文庫

構造主義がカント主義だといわれるのは、無理もありません。

ヘーゲルは、カントが同一性にとどまることを批判し、弁証法を導入しました。

マルクスが『資本論』の序文で、自分は社会主義者の資料を一つも使っていない、全部ブルジョア側の資料を使っているという。

日本浪漫派とはむしろ三島のようなものだと考えるべきです。

小林秀雄が、批評とは他人をダシにして自分を語ることだといった。

『論語』を読んだときに思うのは、一つの一貫した理論や物語を作れないということです。

フーコーがエイズで死んだけれども、彼の最後の問題は、倫理の問題でした。

ウィトゲンシュタインが世界は物からできているのではなくて、事実からできている、という言い方をしているわけですね。

カントの批判というのは、領域の区別、あるいは裁判所の審級の区別ですね。

フーコーにしてもデリダにしても、ある意味でサルトル的ですね。

ヘーゲルの哲学は、全体が論理学です。そこでは、哲学史、あるいは歴史から、固有名が消されます。

イエスは、自分は平和をもたらしにきたのではない、闘争をもたらしにきたのだといいました。

二十世紀とはいろいろな批判にもかかわらず結局のところ、やはり「自然主義」と「私小説」の時代だったことは認めなければならない。

2017年9月16日 (土)

竹田青嗣『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』講談社学術文庫

フローベールはモーパッサンに「世に一つとして同じ樹はない石はない」と教えた。これは自然の無限、豊富さを尊敬せよということだが、・・・・・

「私は懐疑派ではない」とデカルトは言っている。懐疑派はただ疑うためにのみ論議をはじめるだけだと。

「他人をダシにして」自分自身を語ることを批評の本道とみなした小林の批評の道にとって、・・・

秋成の議論の眼目は、学者としての宣長がはじめから「皇国を万国の上に置」いて「日本魂」を強調することの偏りに、反省を促すところにあった。

小林は・・・・・「源氏物語」から「物のあはれを知る心」を読みとった宣長の視線をとおして、・・・

「物のあはれ」という中心テーマには芸術上の美の本質を照らすものが含まれており、しかも紫式部はそのことを極めて明瞭に自覚していた〝思想家〟でもあった。

小林はむしろ、美の根拠は人間の生活の中での情(こころ)の動き以外にはどこにもないと、大胆に言い切っている。

宗教の発想の核心は、・・・・・〝信ずるものは救われる〟ということに尽きる。

2017年7月21日 (金)

熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書

哲学の起源はふつう、ギリシア本土から見て東方にあたるエーゲ海対岸のイオニアと、現在の地理的表象にそくして語るならば南イタリアに位置する、ギリシアの植民都市の双方にもとめられる。

タレスが偉大なのは、世界すべての原理はなにかという、かつてない問いを発したこと自体にある。

輪廻をめぐる思考は、オルフェウスの教えのうちにすでにふくまれている。

カントによれば、世界は有限でも無限でもないからである。

デモクリトスとエピクロスの「差異」に注目したのは、学位論文を執筆した若きマルクスであった。

ソクラテスがしたがう「神」は、なぜか単数形である。

教えることで報酬をとった最初の人間が、プロタゴラスであるむねを、プラトンが証言している。

クサンティッペが悪妻であったのは、たぶんない。ソクラテスが好色かつ酒好きな道楽者で、無能のひとだったのである。

アレクサンドロスは、もしじぶんが大王でなければ、ディオゲネスであることを望んだであろうと語ったといわれる。

哲学史は確実に哲学そのものです。テクストとともに思考を継続することなしに、それぞれの哲学者が考えたこと(思想)を理解することは不可能であるからです。

2017年1月31日 (火)

高橋昌一郎『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』講談社現代新書

科学者が不可能だと言いながら、後で意見を撤回したような例は、歴史上いくらでもあるのです。

同じ言葉で話していながら解釈が異なっていたり、大きな誤解が生じたりすることもある。

ウィトゲンシュタインは、過去の「哲学的問題」は「言語的問題」にすぎないと、一刀両断のもとに切り捨てたわけですな。

ヒンドゥー教徒にとっての牛は、シヴァ神の乗り物で崇拝の対象であり、・・・

カントは、純粋理性では神の実在について知れないことを証明したが、道徳の合目的性のために神の存在を受け入れたのだ。つまり神は、理性の対象ではなく、信仰の対象だということだよ。

パスカルの『パンセ』に登場する「神を信じないよりも信じる方が得である」という論法は知っています。

2016年12月27日 (火)

ルソー『エミール(下)』岩波文庫

プラトンは「国家篇」のなかで、女にも男と同じ訓練をさせている。・・・・・かれの国家では個々の家族を廃止してしまったので、婦人をどうしたらいいかわからなくなったプラトンは、女を男にしなければならなくなったのだ。

気ちがい男を愛する女は、気ちがい女でなければならない。

算術で計算しなければおやつの桜んぼをもらえないとしたら、女の子はすぐに計算を覚えることになる、それは保証してもいい。

女の子はおせじを言い、ごまかし、はやくから仮面をかぶることを知っているからだ。

服装のことをよく知っている女性は、よいものを選んで、いつでもそれをもちいている。

カトリックの国にくらべてプロテスタントの国ではいっそう家庭に愛着がもたれ、いっそう尊敬すべき妻、やさしい心をもった母が見うけられるような気がする。

ヘロドトスには、かれの歴史は考察というより物語なのだが、・・・

タキトゥスは、どんな作家がこんにちのドイツ人について記述しているよりもよく、・・・

ルソー『エミール(中)』岩波文庫

「どうして子どもはできるの」「女の人はおしっこをするようにして子どもを生むんですよ。それはとても痛くてね、そのために死ぬこともあるんですよ。」・・・・・賢い人は、これ以上に分別のある、目的にかなった解答がほかにみあたるかどうか考えてみるがいい。

容貌は性格を示すものとわたしは考える。

子どもは、喜びと苦しみという、はっきりわかる二つの感情しかもたない。

歴史の大きな欠点の一つは、人間をよい面からよりも、はるかに多く悪い面から描いていることだ。歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。

トゥキュディデスは、わたしの考えでは、歴史家の真の模範である。かれは判断せずに事実をつたえている。

人間をいちばんよく知っているのは哲学者ではない。哲学者は哲学の偏見を通して人間をみているにすぎない。あんなに多くの偏見をもっている連中をわたしはほかに知らないと言っていいくらいだ。未開人は哲学者が判断するよりももっと健全にわたしたちを判断している。

人間はいちばん安い品物だ。・・・・・人権はいつでもあらゆる権利のなかでいちばんとるにたりないものだ。

宗教というものをいっさい忘れてしまうとやがては人間の義務を忘れることになる。

宇宙を動かし、万物に秩序をあたえている存在者、この存在者をわたしは神と呼ぶ。

フランス語をよく知るためにはラテン語を学ばなければならない。

勝負ごとは金持ちのする遊びではない。それはなんにもすることがない人間のなぐさみごとだ。

2016年12月25日 (日)

竹田青嗣『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書

ヘーゲルは「近代社会」の理念のもっとも本質的な完成者、マルクスは「近代社会」の現実のもっとも根底的な批判者

宗教の基本方法は「物語=神話」を使う点にある。

錬金術への可能性は、金が合成されえない単一の元素であるという「原理」が見出されることによって終焉する。

ホッブズは王権論者であり、専制を擁護している、暴力を肯定し人間性悪説である。

巨大建造物は、権威、権力、財の集中がなければ不可能だからだ。

ルソーの『社会契約論』が全体主義の理論的源泉となったという意見は、・・・

世界史的には、大きな国家(帝国)の栄えるところ、必ず商業の繁栄が見られる。

近代以前の社会では、善はただ一つ(=真理)でなければならない。キリスト教会が何度も宗教会議を開いたり、アキナスのような学者が巨大な『神学大全』を書いて、教義を統一しようとしたのはそのためだ。

ホッブズが普遍闘争の原理を提示し、ロックが人民主権国家の可能性を示し、ルソーがその思想的「原理」を明示したとき、人類は、およそ一万数千年続いた絶対的支配と隷属の構造から抜け出す「可能性の原理」をはじめてつかんだ。

 

2016年11月12日 (土)

小倉紀蔵『入門 朱子学と陽明学』ちくま新書

朱子学は徹底的な保守・守旧の思想であり、その教えを後生大事に守った中国や朝鮮は数百年もまどろみ続け、そのせいで近代化に遅れて悲惨な運命をたどったのを忘れたか、と抗弁される向きもあるに違いないが、まさにそのような考え自体が、西洋近代中心主義に毒された誤謬なのである。

特に朝鮮は十四世紀終わりから二十世紀初めという長期にわたって、ほとんど朱子学一辺倒となった。

偉大な思想は社会の混迷期に現れるという。それは、社会の混迷期には、人間がおのれの存在に対して徹底的な恐怖を抱くからである。

伝統的に朱子学においては、四書を読む順番が決まっていた。それは『大学』『論語』『孟子』『中庸』の順である。

アニミズムでは、自然そのものに対する畏敬もあるが、それだけでなく特定の石や樹木などの個別性に対しても、強烈な畏敬ないし愛着の念を抱く。

朝鮮半島ではアニミズムというのが非常に蔑視されているから、どうしても「気の思想」よりももっと「物」に近いものの世界観になかなかおりていけない。

2016年8月14日 (日)

鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書

経営においてこれだけはゆるがせにできない、これを外したらこの会社でなくなるといった社是(コーポレイト・アイデンティティ)を貫いているのであれば、その企業には哲学があるということになる。

哲学は何から始めるべきか。これが多くの哲学者が最初にこだわる問題

胃の存在はふだんは意識されることはないが、胃がうまく機能しなくなるとはじめてその存在が意識に上ってくる。

哲学は、何かについて何ごとかを語るときに、同時に、その語りがどういう場所からなされているのか、またどのような権利根拠があってなされているのかということを、厳しく問う学問である。

ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、・・・

・・・そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人だということになる。

一つのことしかできないというのは、プロフェッショナルではなく、たんにスペシャリスト

アカデミズム内部での「哲学研究」に身を縮めていったこの国の哲学は、文献を「読む」ことに傾注し、時代を「みる」(視・診・看)ことをなかば放棄してきた。

イデオロギーとは「だれも正面きって反対できない思想」のことである。

専門家への信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにある。

2016年7月27日 (水)

小川仁志『日本哲学のチカラ 古事記から村上春樹まで』朝日新書

仏教は、経典、僧侶、寺院といったインフラに加え、思想としての体系を備えていたことから、その後の日本社会を形作る礎になり得たのです。

最初期の段階での仏教の定着が、きわめて政治的な出来事に負っていた点には注意が必要です。

天皇とは、中国の天命思想の伝統に由来します。

神道に教義や経典がないことにこそ意味があるというのです。

新渡戸の武士道が異質なのは、それがキリスト教徒の手によって、キリスト教のために書かれたという点です。

転向とは、権力の強制による思想の転換をいいます。

西田の哲学が「無の哲学である」と称される

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