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歴史

2017年5月15日 (月)

蓮實重彦・山内昌之『20世紀との訣別・・・歴史を読む・・・』岩波書店

ヘーゲルやマルクスが歴史的必然性という名の「法則」を見出した・・・・・そのヨーロッパ中心主義的な図式から抽出された「法則」は非ヨーロッパ世界のイスラームやアジアにそのままあてはまるものではありません。

宇野弘蔵の『経済学方法論』を読んでマルクスの『資本論』を原理論として理解すれば「経済法則」が抽出されるという指摘に感心したことがあります。

マンハイムを批判したアメリカの社会学者マートンが「一般大衆の知識状態」も「思想」の一形態だと述べたように、ある集団あるいはその一部が特有の「思想」や「知識」を特定の歴史事象についてもつことはありうるからです。

フランス史というものは存在せず、すべてはヨーロッパ史だ・・・・・ヨーロッパ史というものは存在せず、すべては世界史だ。

地中海への関心は、やはり中東・アフリカの植民地制服から来るんですね。

サルトルはドイツ占領下のパリをくまなく知っている。

アルレッティーはといえば、これはドイツ将校との熱烈な恋で浮名を流すことになる人ですし、・・・

綱吉将軍の時代、竹島に渡った日本の漁船と朝鮮人が衝突して談判になった時、儒者の林鳳岡が『日本書紀』や『三国志倭国伝』や『梁書』に竹島が出ていることを知らず、朝鮮側との論戦で屈したというのは残念な一例です。

2016年10月15日 (土)

大村大次郎『お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない』KADOKAWA

室町幕府は、武家政権の中ではもっとも財政力がなかった政権なのである。

桶狭間の戦いも、実は、「知多半島を巡る勢力争い」だった。

武田信玄の経済政策というと、土木事業が有名である。

日本を代表するゼネコンである竹中工務店は、信長の普請奉行だった竹中正高が、関ヶ原後に創業したとされている。

「秀吉は、信長のアイデアをそのまま踏襲してきた」、そして、「信長のコピーをすることで成功し、着々と天下を手中にしてきた」のである。

朝鮮征伐もまた、実は信長のアイデアなのである。

信長は、天下統一した暁には、大陸に乗り出して明までを支配下に置こうと考えていたのだ。これは、秀吉の朝鮮征伐計画の元ネタといえるのだ。

日本人の生活に、なぜ宗教が根ざしていないかというと、信長が仏教勢力を徹底的に弱め、秀吉、家康がキリスト教を禁教にしたことが最大の要因だといえる。

2016年5月25日 (水)

市井三郎『歴史の進歩とはなにか』岩波新書

アルジェリア解放の闘士であった黒人、故フランツ・ファノン

プラトンは古代ギリシャ史ではじめて、歴史の明確な段階的変化(価値的に中性の意味での段階的発展)を見出した人である。

中国人は歴史を本質的に循環するもの(春夏秋冬のような循環)としてとらえていた。

ジョン・ロックの宗教的寛容論においても、キリスト教諸派のあいだの寛容が説かれたのであって、回教にたいしては、いぜんとしてロックもきびしく不寛容であった。

ヴォルテールなどが、自分の書斎に終生、中国の孔子の肖像画をかかげていた、・・・

人間精神の歩みをより迅速に、より確実に、より容易ならしめる手段はすべて印刷術のおかげである。

印刷術はそもそも、グーテンベルクより千年以上も早く中国で発明されたものであり、金属活字による印刷術に話をかぎっても、その技術はやはりグーテンベルクより九百年ほど前に朝鮮で発明されている。

マルクスが、人間史の過程と狭義の自然史の過程とを、本質的に同じとみなしたという点は、いまさら説くまでもないだろう。唯物論だからだ。だがマルクスのは、弁証法的唯物論であった。

コンドルセの弟子であったサン・シモンや、サン・シモンの弟子であったオーギュスト・コントらが、・・

だから近代市民革命の思想的父祖たるジョン・ロックの諸著述には、「平等」理念の主張はおよそないのである。

現在法哲学界の最長老であるハンス・ケルゼンが、《わたしには正義とは何かを定義できない》と慨嘆したほどの難問なのである。

2016年5月23日 (月)

大江志乃夫『徴兵制』岩波新書

世界のうえでも日本史のうえでも、戒厳令の歴史と徴兵制の歴史とは密接な関係を持っている。

アメリカ独立戦争は、イギリス正規軍とアメリカ民兵との戦争であった。

日本は植民地を獲得したあと、植民地には徴兵令を施行しなかった。

モルトケの愛弟子であるメッケルが陸軍大学校で兵站の講義をしたとき、・・・

2016年5月21日 (土)

小田実『歴史の転換のなかで ―21世紀へ―』岩波新書

ソビエトが東ヨーロッパの社会主義国をまとめ上げて「コメコン」(東ヨーロッパ経済相互援助会議)というような経済共同体をつくり上げようとしたがうまく作動していないし、・・・

「ブラック・パワー」の最大のスター、クリーバー氏が熱心なキリスト教信者になったりするというようなことが起こったりする。

毛沢東の『矛盾論』が彼の思想の集大成です。

私は延安時代の中国共産党がその歴史のなかでもっとも民主的で自由、平等な共産党であったような印象をもつのですが、・・・

・・・・・パレスチナ人を追放し、「ディール・ヤシン」の虐殺をひき起こす。

金日成氏の「主体」思想、カストロ氏の「第三世界」の概念の創出、チトー氏の「非同盟」思想

マルクスのもっとも偉大なところは・・・・・なんと言っても当時の資本主義社会の「実地勉強」を克明にやって、そこから「剰余価値の創成」というそのメカニズムの根もとにあるものを抽出したことにあるのだと私は思います。

私は「初期マルクス」よりはるかに「後期マルクス」を重視します。

金芝河の解放思想は彼のカトリック神学にもとづいた世界観の帰結であるという事実で・・・

2016年5月15日 (日)

J.B.モラル『中世の刻印―西欧的伝統の基盤―』岩波新書

歴史の研究者はすべておそかれはやかれ時代区分の問題に取り組まねばねらない。

ローマ社会の衰亡の主たる理由の一つとして租税の苛酷な重圧をとり上げている。

アウグスティーヌスの極度の個人主義の強調は、『告白録』の中に彼によって描かれている、精神的な確信を求めての強烈な個人的闘いの帰結であった。

チョーサーもその後半生における宮廷との関係にもかかわらず、元来町人出身の人であった。そして中産階級の小説家の巨頭であるボッカチオ自身も、『デカメロン』の中に多くの貴族的宮廷風恋愛の諸要素をとり入れている。

神の存在証明においてアクィナスは、理性的論証以外のいかなる方法をも使用することを拒んだ。

2016年3月29日 (火)

網野善彦・鶴見俊輔『歴史の話』朝日新聞社

天皇制という言葉は、コミンテルンの三二年テーゼが日本で翻訳されたとき、非合法下の日本共産党関係者が訳語として初めて使用したもので、本来、イデオロギー色がきわめて強い政治用語なのである。

「百姓」というのはたくさんの姓を持った平民のことですからね。

寺小屋は驚くべきことをやった。つまり、その当時のイギリス、フランスを超える教育の力を示していたわけです。

日本では七世紀末に天皇の称号のきまるまえの王を「大王」といっています。

いま日本で必要なのは、国際学ではなくて、むしろ民際学なんですよ。

台湾の学者は、漢民族の定義は儒教と漢字だといっていました。

2016年1月 4日 (月)

トマス・ブルフィンチ『完訳 ギリシア・ローマ神話 上』角川文庫

私たちは、神話の知識なしには私たち自身の国の言葉で書かれたすぐれた文学の多くを理解したり鑑賞したりすることができません。

女神のなかでもいちばん美しい神さまが、男神の中でもまたとない醜い神さまの妻になったわけなのです。

アテーナーの寵愛した鳥は梟で、・・・・・

今日でも、政治上の首領に対して熱狂的に節操もなく盲従する者はすべてミュルミドーンと呼ばれています。

ゴルゴーンの一人であるメドゥーサ

昔の異教に見られるひとつのほほえましい特徴は、人々が大自然の作用をすべて神の仕業であると考えるのが好きだったということです。

2015年11月11日 (水)

ウィリアム・H・マクニール『世界史 上』中公文庫

標準的な一国の歴史において、ひとつひとつの都市や村落の固有の体験が、どんなにむざんに無視されてきたかを考えてみるとよい。

神官の力と威信のもうひとつの基礎は、彼らが神々についてのすべてを知り、神々を喜ばす―ないしはそれが不可能なら、神々をなだめる方法を知っていたことだった。

ただし、現存する判例からみて、このハンムラビ法典の条項が実際に行われたかどうかは明らかでないが。

ギリシャ神話のケンタウルスと歴史時代の騎馬人とは、このようにぜんぜん異なった生物的種の間のみごとな共生を表していたのである。

ソクラテスが弟子のプラトン同様、過激な保守主義者であったことはまちがいない。

聖人孔子は、ほんとうのところ、自分を失敗者と見なしていた。なぜなら彼は一度も政につくことを求められなかったからである。

2015年11月 4日 (水)

高橋正衛『昭和の軍閥』中公新書

第一次大戦がもたらした画期的なものは、総力戦という概念であり、・・・

明治生まれの軍人は、期と生年とが一致するということである。

幼年学校、陸士の優等生には天皇より時計、陸大の優等生(通常一期で五人)には軍刀が下腸される。

なお血盟団という名称は、この事件の主任検事であった木内曽益がつけたものである。

宇垣にかぎらず陸軍では、現役か否かが決定的な力のちがいとなる。

統制派は、究極のところ、組織による改革、最後はヒトラーの授権法的政権獲得をめざしているのにたいし、皇道派は直接行動による改革に重点をおくといってもいい。

昭和七年という日本の情況は、たとえこの一節を含むものでも、「三二テーゼ」は、治安維持法の存在を自覚し、特高の拷問を覚悟し、また一家の破壊をも覚悟し、死刑さえも覚悟してまで運動をつづけた人々にとっては、立派な指針であったのであろう。

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